両親が育ち盛りの子供をおいて海外へ飛び立ったのは僕がまだ10代だった頃の話だ。
一番年上だからという理由で押し付けられた家事仕事に最初の頃は憤りすら覚えていたが、やっと慣れて来た。
僕には4人の弟たちがいる。
みんな手のかからないいい子だ…と言いたいところだけれど現実はそううまくはいかない。
確かに悪い奴はいないけれど、みな個性が強すぎて。
と前に末の弟の潤にそう言ったら、溜息をつかれて兄貴に言われたくねぇよと言われた。
どういう意味かわからないけれどとりあえずむかついたので殴っておいた。
まあそれは良いとして。
とにかく一筋縄じゃいかない兄弟達の世話をするのは大変だった。
「今日ももういないの?」
雅紀が朝ごはんをかきこみながらひとつ空いた席を指差した。
最近ずっと空いているその席は次男の翔のもので。
「うん、なんか研究が大詰めなんだって」
そう翔が置いていった言葉をそのまま伝える。
「にしても毎日すぎない?夜も帰ってこない日多いし」
一番の次男っ子の末の潤がすねたようにそういう。智はそんな潤の頭をぽんぽんと撫でた。
「もうちょっとしたら落ち着いてかまってくれるよ」
そう言って笑うと潤も笑った。
本当は。
翔が嘘を着いているのを知っていた。
研究が大詰めだったのは最初だけで。
今は割と暇なのだと同じ研究室の翔と共通の友人の裕貴が言っていた。
何のために嘘をついているのか、まったく見当もつかなかったけれど。
翔も立派な大人だしね。
そう思って、干渉するのはやめた。
どうして、こんなにも無防備なんだろう?
洗濯の途中だったのだろう。
白いシーツに包まってよだれをこぼしそうな勢いでソファにもたれかかって寝ているのは、自分の兄だった。
バイトまで少し時間が空いて忘れ物を取りに帰ったその場所に、安らかな寝顔。
なんだか泣きたくなった。
誰にも言えない気持ちを抱えている。
この目の前で気持ち良さそうに寝ている自分の兄に、抱いてはいけない気持ちを。
それを隠したくて最近ずっと家に帰らず友人の家にあがりこんでいる。
研究だと嘘をついて。
ばれているだろうな、と思う。
嘘は得意じゃないから。
だけれど言い訳も用意できていないから、知らんフリ。
なんとかしなければと思うけれど、解決策は思い付かなくて。
翔は溜息をつくと、智を起こさないように忘れ物を持ち、家を出た。
街で翔が女の子と歩いてるのを見かけた。
声をかけようと思って近づいて笑っている顔を見たらなんとなくむっとして。
やっぱりいいやときびすを帰してしまった。
少し離れたところで振り返ったら、小さなアパートの2階に買い物袋を持って仲よさ気に入っていくのが見えた。
なんだ、そういうことだったんだ。
彼女が出来たなら出来たと素直に言えばいいのに。
最近家にあまりいないのはそのせいなのだろう。
それを照れ臭いのか研究なんて変な嘘をついた翔に腹を立てた。
手に持った買い物袋が小さく揺れる。中に入った翔の好物を道端に捨てたくなった。
「なんだ、帰って来たんだ」
今日は誰も泊めてくれる人がいなくて、仕方がなく意を決して家に帰ると冷ややかな声が降って来た。
いつも、どんなに家をあけてもどんなに遅く帰ってもにこやかだった兄が。
何故だかわからないけれどとても不機嫌だ。
それは他の兄弟も感じているらしく、ちらちらとこちらの様子をうかがっている。
「最近あんま帰ってこなかったから、ごはんないよ」
さらに冷たい声で言い放たれて、尻込みしてしまう。
「あ、一応食べて来たから」
なるべく機嫌を損ねないように言うと、何故かさらに機嫌が悪くなったように見えた。
ああそう、とことさら冷たい返事が帰ってくる。
「翔兄ちゃん…」
小声で智の後ろから和也が翔を手間ねく。助かったとばかりに翔はそちらへと寄った。
「智さんなんかあったの?」
小声で智に聞こえないように尋ねると、和也は怪訝な顔をした。
「…翔兄ちゃんとなんかあったんじゃなかったんですか?」
「え…?」
和也曰く、智の機嫌が悪くなったのは3日ほど前の話だったらしい。
皆も何が原因かわからずに戸惑っていたのだが、そのうちあるひとつの単語を出すとさらにひどく機嫌が悪くなる瞬間があるのに気がついた。
それが翔の名前、だったのだ。
「ねぇ?何怒ってんの?」
帰って来てから一度も目も合わせてくれない智に、翔は意を決して尋ねる。
もう他のみんなは自分の部屋に戻ってしまって、気まずい雰囲気だけが流れていた。
一体自分は何をしてしまったのだろうか?まさかとは思うが、自分の気持ちがばれてしまったとかいうことなのだろうか?
そうだったら立ち直れない。
「…別に怒ってないけど」
怒っています、という顔で、口調で答えが返ってくる。
「怒ってるじゃん」
明らかな態度で否定されるとこちらも段々と腹が立ってくる。
むっとした気持ちをこめて言い返すと、智もさらに顔をしかめた。
「…うるさいよ!うそつき!」
切れたように小さく叫ばれた言葉に、言葉が詰まった。
「…もしかして研究のこと言ってる?」
黙ったまま、さらにそっぽを向かれて。考えが正しいことを悟る。
「…悪かったよ、嘘つくつもりじゃなかったんだけど…」
素直に悪いと思っているから謝罪を述べる。
だけど理由だけは言えなくて口をつぐんだ。
その翔の態度に、智は初めて目線を合わせると睨み付けて来た。
「…なんで理由言わないの!?彼女が出来たなら出来たって言えば良いじゃん!!」
何をこんなにも怒っているのだろう?自分でもわからない。
もうしっかりとした大人になった弟に、彼女がいたって良いじゃないか。
そう思うのに、むかむかとした気持ちは抑えられそうになかった。
癇癪を起こして、関係のない他の弟にまで当たり散らした。
「…智、さん?彼女ってなんの話?」
切れた智の言葉に、混乱した表情で翔が首をかしげた。
今更まだしらばっくれる気なのだろうか?
「何の話も何も、いるんでしょ?彼女。研究とか嘘つかずに最初から彼女が出来たって言えばいいじゃん!!」
一気にまくしたてて話すと、翔が慌てて言い返して来た。
「ちょっ、ちょっと、待ってよ!俺、彼女なんかいないよ!」
まだしらを切る気なのかと無意識に翔の顔をにらみつけた。
「うそつくなよ!!彼女と仲良くやってたじゃんか!?」
「だから待ってよ!ホントに彼女って何言ってんのかわかんないんだけど?俺、彼女なんかいないよ?」
「…じゃあ、なんで嘘ついたの?彼女が出来たんじゃないならなんで嘘ついたの!?」
そう叫ぶと、翔は声を詰まらせた。ほら、やっぱり。
何でそんなに隠したいのかわからないけれど、そんな態度が余計に苛立ちをまさせた。
「もういいよ!帰ってこないほど彼女といたいならずっとそっちにいれば!?」
そう喚いた途端、翔の腕が伸びてくるのが見えた。
殴られるのかと思って目をつむったら、肩を引っつかまれたのがわかる。
ぐらりと体が揺れた。
次に目を開けたら、床に背中がくっついていて、天井と翔の顔が見えていた。
頭が真っ白だった。
彼女だとかなんだとか身に覚えのないことを責められて。
気がついたら翔は智を引き倒していた。
今まで想像の中でなら幾度もしてきたことだったけれど、現実にもこんなにも簡単なことだったのだと思う。
このまま真下にある身体を組み敷いて、赤い唇に噛み付けば、自分の願望は形になる。
いっそこのまま、と掴んだ手首に力を込めた。
想像よりもはるかにしっかりとした身体にやはり智は男なのだと、実感する。
そんなことわかりきっているのに。
身体をゆっくりと近づけるとびくりと智が震えたのがわかった。
「…ごめん」
その震えで我に返った翔は、腕を離した。
恐怖の混じった、戸惑いの表情で見上げるその瞳にはかすかに涙がたまっている。
ずきりと胸が痛んで、そのまま智の身体から退く。
翔はもう一度小さく謝ると、脇においてあった自分の荷物をひっつかんで家を飛び出した。
どれくらい走っただろうか。
夜風でやっと冷えた頭で先程の自分を思い出す。
あまりにも滑稽で笑いたくなった。
もう家には帰れないと思った。
翔が出て行った後、智は床に倒れたまま呆然としていた。
何が起こったのかまったく理解できていなくて。
ただ頭の端でぼんやりと、今誰かがこの部屋に入って来たら不審に思われるだろうな、と思った。
幸い、誰も入ってくる気配はない。
恐いと、自分の弟に対して感じたのは初めてだった。
何故あんなことになったのか、頭の悪い自分には到底考えがつかないが。
力強く押さえ付けられた手がひどく熱い。向けられた眼差しも同じくらい熱かった。
あんな瞳をした翔は初めてだった。
そして思わず震えた身体に、反応して見せたひどく傷ついた瞳も。
翔に彼女がいると知って無償に腹が立った。
関係もないのにひどく機嫌を悪くして翔が怒るのも無理はないと思った。
だけど…翔の起こした行動はおかしかった。
あんな瞳で見るのは卑怯だ。
頭の中の全部がふっとんで他に何も考えられない。
心臓の音が窮屈そうに胸の中で鳴っている。
どうしてあんなことを?と翔に尋ねるのも恐かった。
3日後、何も聞けないまま、翔の部屋がからっぽになった。
「翔、お前家出たんだって?」
裕貴にそう呼び止められて、翔は苦く笑う。
そうだよ、と返すとなんで?と質問が返って来た。
「一人暮ししてみたかったんだよ」
至極最もそうな理由を述べてみる。
確かにしてみたかった気持ちもあるからこれは嘘ではない。
裕貴はその言葉に首をかしげる。
「お前、学生の間は実家にいるって言ってなかったっけ?」
そう言われて口をつぐむ。嘘はやっぱり苦手で。
「まあでも最近家、帰ってなかったもんな」
暗になにかあったのか?と問いただされている台詞に、言えるものなら言いたいと思った。
すべてあらいざらい誰かに話せばすっきりするのではないだろうか。
だけれどやっぱりこれは言えない。
考え込んでいると背中を2回叩かれた。
「言いたくなきゃ、言わなくていいよ」
そう言って微笑まれて。その優しい気持ちに感謝する。
この聡い友人は何も言わなくてもいつもわかってくれる。
「…俺は何があってもお前の味方だよ」
そんな一言に、不覚にも泣きそうになった。
夕飯の支度をしながら、ぼうっとしてしまう。
考えることは出ていってしまった翔のことばかりで。
胸の奥がぽっかりと開いたような気分だった。
出ていくその日まで、翔は一度も目を合わせなかった。
兄弟たちの前では不自然な自然を装いながら、一人暮しをするのだと言い放って誰の制止も聞かず飛び出して行った。
落ち着いたら連絡するよ、と言ってどこに住むのかも伝えないままに。
当然不審に思ったのは弟たちだった。なにかあったのか?と気遣うように尋ねられた。
だけど智には答えることが出来ない。だって翔は何も言ってくれなかった。
言い訳も弁解も。
翔は、今、家を出てあの彼女といるのだろうか?
そう考えたら翔のことばかり考えている自分がかわいそうに思えて来た。
もやもやして胃の辺りが気持ち悪い。
まるでやきもちを妬いているみたいだ、と考えてハタと動きを止める。
馬鹿言うなよ、やきもちってなんだよとすぐさま自分につっこみを入れた。
弟に彼女がいるからって何故ヤキモチを妬く必要があるのか。
そしてあの翔の不可解な行動を何故こんなにも意識しなければならないのか。
また段々と腹が立って来て。
もう考えるの、やめよう。
智は頭を振ると、すべてを思考の奥へとしまった。
朝、頭が雲がかっているみたいな感覚で目が覚める。
それが風邪によるものだと気が付いたのは研究室についてからのことで。
一人暮しをはじめてからの生活が今まで以上に不規則になっていたから、体を壊すのも当たり前だった。
ずきずきと痛む頭を押さえながら、もう帰ってしまおうかと考えていたところに思わぬ客がやってくる。
「翔兄ちゃん」
同じ研究室の友人に弟が来てる、と言われて驚いて外に出ると末っ子の潤がそこにはいた。
ほんの数日会っていなかっただけなのに、なんだか数ヵ月ぶりのような感覚に襲われる。
目の前に立つ潤は笑って手を上げながらも目は完全に怒っていた。
無理もないけれど。
「よぉ」
翔はなるべく軽く挨拶を返して横に並ぶと、潤は口を開いた。
「ちょっと話、あんだけど」
なんとなく話に予想がついたので、場所を変えようと言い、自分の荷物をとって潤を連れ立って歩きだした。
潤を連れて来た場所は翔が今、住んでいる場所だった。
決して広くはないその部屋は、慌てて引っ越したままで、まだほとんど整理されていない。
散らかってて悪いけど、と適当な場所に潤を座らせた。
お茶を入れている翔を横目にキョロキョロと部屋に視線を巡らした潤は興味深そうに口を開いた。
「こんなとこ住んでんだ」
「まーな。広くはないけどそれなりにやってる」
「…落ち着いたら連絡くれるって言った癖に」
拗ねたように言う潤に苦笑いを浮かべて謝罪を述べる。
「…今日、しようと思ってたんだよ」
そう翔が言い訳すると、潤はまあいいんだけど、と翔がさし出したお茶を飲んだ。
「…で?なんで出て言ったわけ?」
静かに、だけれどはっきりと尋ねられて、翔は息を飲んだ。
「言ったじゃん、一人暮ししてみたいって」
そう裕貴にも言った台詞を繰り返して言う。
潤はその翔の言葉にすぐ切り替えして来た。
うそだ、と。
「それなら突然出ていく必要がないだろ?」
至極最もな言葉を突き付けられて、言葉に詰まってしまう。
潤はそんな俺に撒くし立てるように続けた。
「翔にいちゃんは変だ。この間からずっと何か隠してる!!」
言えるはずない秘密を暴かれるわけにはいかなくてそんなことはないと首を横に振ると、潤はさらに怒りを剥き出しにした。
「絶対何か隠してる!!」
一歩も引かないという態度で詰め寄ってくる潤。意を決したように次の言葉を言い放った。
「…ねぇ?智にいちゃんと何があったの?」
その台詞に胸がどくりと震える。それに気付かれないように慌てて反論しようとすると突然世界が揺れた。
何故だか遠くに聞こえる潤の自分を呼ぶ声。
ああ、熱が出て来たのかとぼんやり考えながら意識が消えていくのがわかった。
「翔にいちゃんが倒れた!」
慌てた声で潤からかかって来た電話に頭が真っ白になった。
新しい翔の家の場所を聞いて必要なものをつめこんで、走った。
教えられたその場所につくと、不安そうな顔の潤が智の顔を見て少し力を抜いた。
「翔は!?」
食ってかかるみたいに肩を掴むと、潤は面食らったみたいに指だけさした。
ベッドに横たわっている翔。傍に駆け寄った。
「…ちょっと熱が高いみたい」
そっとおでこに手を乗せると、熱が智の手に移る。
タオルを濡らしておでこに乗せると身じろぎした翔に少しだけほっとした。
「…翔にいちゃん大丈夫?」
心配そうな潤の声が聞こえて、振り返る。
そっと手をのばして頭をくしゃりと撫でた。
「大丈夫。ただの風邪みたいだから」
安心させるように笑うと、潤もやわらかく笑った。
「…じゃあ、俺、帰るから翔にいちゃんは智にいちゃんが見てあげてね」
「え…?」
「俺、ここにいても何も出来ないしさ。それに良い機会でしょ?」
何を?と聞かずともわかって苦笑いする。
仲直りしなよ、と言われてどっちが兄なのかわからないなと智は思った。
気を使わせてごめんと素直に言うと潤は照れ笑いを残して帰っていった。
うすぼんやりと覚めた頭に、ぱたぱたと動き回る影を見つける。
見慣れたその姿に一瞬安心感に包まれて再び目を閉じかけるが、それがこの場にいるはずのない姿だと気がついて慌てて跳び起きた。
「え!?」
その声に驚いたように振り返ったその人が慌てて走り寄って来た。
「馬鹿!いきなり起きたらダメ!」
跳び起きたことによってくらりと揺れた身体を支えられる。
その仕種にどきりとして引き離そうとするけれど力が入らない。
「ほら、横になって」
支えられたまま、ベッドに戻される。
熱の性なのか鼻先にかすめる髪のせいなのか、理性が吹き飛びそうになるのを必死で抑える。
「なんで…?」
なんでこんなところに、と疑問をなげかけると智はぽんぽんと翔にかかっている布団を叩いた。
「潤が、お前が倒れたから来てくれって」
そういえば潤と話していたんだっけ。
姿の見えない潤を探して視線を巡らせると智が口を開いた。
「潤なら帰ったよ。俺に任せるって」
「そう、か」
余計なことを、と心でごちる。
とそこまで勢いだけで話をしていた会話が止まってしまう。
気まずい空気が戻ってしまって二人とも黙り込んだ。
どうしたらいいのだろうと頭を抱え込みたくなる。
しかし一生このままなんじゃないかと思った沈黙は意外にも智に壊された。
「…とりあえず、おかゆ作ったから食べて」
そう言うとキッチンから温かなゆげを運んできた。
あまり食欲はなかったけれど、出されたおかゆをつめこんだ。
昔から風邪を引いたらこんな風にしておかゆを作ってくれたっけ。
そんなことを考えながら食べるそれは翔にとって久しぶりの智の料理だった。
「ごちそうさま」
丁寧に手を合わせると箸をおいた。
智はおそまつさまでしたと言うと水と薬を差し出してきた。
「さっき、買ってきたから飲んで」
黙ってそれを受け取ると、飲み込んだ。薬の苦味が喉を通る。
飲み干して、なんとなく飲んだばかりだというのに少し気が楽になる。
病は気からというやつだろうか。
「さ、じゃあしんどいでしょ?今日はもう寝なよ」
薬を飲み終わった翔を見て智は布団をかぶらせた。
「あの、さ。もう寝るだけだし帰っていいよ」
寝かせられながら翔がそう切り出すと智は悲しそうな目をした。
「…俺がいちゃやっぱ迷惑?」
言った意味と違う意味に取られて困惑する。
そうではないのに。
「違うよ…さとっさんが…兄貴がやだろ?」
「やじゃないよ!嫌なわけないだろ!?」
泣きそうな表情で訴えられて少し驚愕する。
そしてそのまま、智の口から思いもかけない一言が出た。
「ごめんね」
「ごめんね」
と口に出すと、翔が困惑したのがわかった。
だけれどそれは無視して続ける。
「翔が、出てったのも怒ったのも俺のせいだよな?ごめん」
自分の大人げない発言が翔を傷つけた。
彼女のことや不可思議な行動のことで意味もわからず腹を立てて、翔を家に帰れなくしてしまった。
そして慣れない一人暮しで風邪を引いて寝込んだ翔を見て、泣きたい気持ちになった。
腹を立てていた気持ちなど、全部吹き飛んでしまって。
撒くし立てるように話して俯くと低い翔の声が降って来た。
「なんでだよ…悪いのは俺だろ?」
ぽつりと投げ捨てるように言われた言葉に少しだけ顔をあげる。
横になった身体をまた起こしながら、苦しそうな表情で翔は智を見た。
どきりと胸がはねる。
「あやまるなよ…!さとっさんは何も悪くないんだよ!悪いのは…」
熱に浮かされた手が、頬から肩に伸ばされる。
見つめられた視線が、まっすぐ過ぎてかなしばりにあったみたいに身体が動かなくなった。
熱で紅潮した頬、長いまつげ、綺麗な瞳。
見慣れて来たはずの顔が今、すぐ近くにある。
ついこの間似たような状況に陥ったな、とぼんやりと思う。
ふいに顔が近づいてくるのがわかった。
気付いたらカメラがピンボケするみたいに翔の顔がぼやけて、唇に熱いなにかがぶつかった。
それがキスされているんだ、と気がついたのは1秒後のことで。
すぐに離された唇から掠れるような声が放たれた。
「…好きだ」
言うつもりなんてなかった、キスなんてするつもりもなかった。
だけど熱で朦朧とした視界に泣きそうな顔。
ただでさえゆらゆらと揺れている世界が揺れて、理性が飛ぶのがわかった。
この人は何もわかっちゃいない。
自分が何故あんなことをしたのか、何故家を出たのか。
やるせなくて、気がついたら唇を押し付けて、そして好きだと呟いていた。
どれくらいの沈黙だろう。
胸に痛いほどの静かな時間の間、智は呆然と翔を見つめていた。
その表情はひどく困った顔で。
困らないはずはない、そうわかっていたはずなのに傷ついている自分に自嘲の笑みを浮かべたくなった。
「…ごめん」
耐え切れなくてまたすぐに謝罪の言葉をのべる。
視線を外して、ベッドに倒れ込み、顔を腕で隠した。
泣きそうな気分だったから、顔を見られたくなかったのだ。
「気持ち悪いこと言ってごめん。兄弟なのにごめん」
沈黙が苦しくて、あやまり続けた。
いつか爆発するんじゃないかと思っていた。
押さえ込んだ秘密の恋は自分の中で抱え切れなくなるほどに大きくなっていたから。
もう、終わりだ。言うべきでない一言は兄弟の関係すらきっと壊してしまっただろう。
ずっと動かないままの智にさらに翔は続けた。
「…忘れていいよ。ごめん。困らせてごめん。…だからもう帰って」
次に会う時には兄弟を演じて見せるから、何もなかったことにして欲しい。
智が帰る音を聞くのが嫌で翔はそれだけ言い残すと、布団をかぶって目をつぶった。
布団に潜り込んでしまった翔をしばらくぼんやりと見つめていた。
段々と冷静になって何が起こったのかを理解すると頭がパニックになる。
慌てて荷物を掴んで、外へと飛び出した。
翔が、自分のことを好き、なんてそんなまさか、と思った。
翔は自分の弟で、そして間違いなく男だ。
思っても見なかった言葉に驚きを隠し切れない。
普通に考えれば、ありえないことだった。
智も翔が好きだ。
だけれどそれは家族愛のはずで。
だけど翔の熱を含んだ告白はそれではなかった。
普段から人の気持ちに鈍感だと言われる智にもわかるほどの熱い気持ちは、胸を突き刺した。
そしてそれと同時に触れた唇をそっと指で撫でてみる。
随分と時間がたったというのに翔の熱がまだ残っている気がした。
不思議と気持ち悪いとは思わなかった。
突然の出来事だったけれど、どちらかと言えば胸の奥に甘い痛みが走ったくらいで。
とそこまで考えて、甘い痛み?と自分で考えたくせにそこに疑問を持つ。
甘い痛みってなんだよ。
男にキスされて気持ち悪いではなく、甘いと感じるなんて。
翔の家から足早に動かしていた身体を止める。
夜風が当たって、智は自分の感情が渦巻いているのが、わかった。
智が出ていく音を布団の中で耳を塞いで聞いた。
そこまでしても聞こえてしまった音に軽く傷ついて。
何も考えたくなくて、そのまま目を閉じる。
眠ってしまえ、と思った。
目を閉じたら効いてきた薬のおかげですぐに眠気が襲って来て。
風邪を引いていて良かったと思った。
次に目が覚めたのは朝日が差し込んだ頃だった。
身体は昨日よりも随分軽くなっている。
薬のおかげか順調に回復してしまったようだ。
いっそこのままずっと風邪でもひいておければ良かったのに。
昨日の出来事を思い出して溜め息をついた。
軽くなった身体とはうらはらになまりを背負ったみたいに重たい心。
泣きたいと思った。
寝転んだままそこまで考えて、喉が渇いていることに気付く。
身体を動かすのはひどく億劫だったけれど、なんとか布団を持ち上げてキッチンへと向かおうとする。
だけれど布団は何故か、布団ではない重さを含んでいてうまく持ち上がらない。
おかしいな?と視線を巡らすと、布団の上に、出て行ったはずの智が床に座り、頭だけをのせて眠っていた。
なんで…!?
と声を小さくあげると、布団の上の智はもぞもぞと動き、顔をあげた。
眠たそうな目をこすりながら、翔の顔を見上げると何事もなかったようにおはよう、と言った。
おはようと声をかけられて、呆然とする。
昨日の夜確かに部屋を出て行ったはずなのに。
驚きと困惑の声を翔は搾り出した。
「帰ったんじゃ…」
智はそれを聞くと、静かに笑って姿勢を正した。
「うん、帰ったよ」
目線をまっすぐに合わされる。
優しい瞳だ。
「じゃあ…なんで?」
「俺ね、ずっと腹が立ってたんだ、翔に。…なんでかわかる?」
「…嘘ついたから?」
思い付く理由を口に出したら首をふられて。
「確かにね。それにもちょっとはムカついた。けど一番腹立ったのは女の子と仲良く歩いてたの見た時」
「え…?」
「なんでかわかんないけど、死ぬほどむかついて翔にやつ当たった」
それは翔が出ていくきっかけになってしまったあの晩のことだろう。
「弟に彼女が出来るくらい、平気なはずなのにね」
自らを笑うようにくすりと智は声を漏らした。
翔は読み取り切れない智の言葉に口を開くことが出来ない。
智はさらに続けた。
「…その日からずっと翔のことばっかり考えてたよ。何回も考えないでおこうって思ったのに。なんでだろうって、ずっと思ってた」
智はそこで一度呼吸を整えるように小さく息を吸い、そして吐いた。
「俺、翔が好きだよ」
何を言われているのだろうと思った。
耳が自分に都合のいいように聞こえるようになったのかと思って思わず凝視する。
「なんて顔してんだよ?」
智は苦笑いでそっと翔の手に手を重ね合わせた。
「うそ、だろ?」
やっとのことで出した震える声に、重ねられた手が力強くなる。
「うそじゃないよ?」
首を傾げるように、顔をのぞきこまれた。
その瞳は嘘を言っている様子はなく。
「でも、俺、男だよ?」
確認するように言うと俺もだよと普通に返される。
「…兄弟だよ?」
今度はそう言うと困った顔で。
「そうだねぇ」
と言った。
なんてのんきな台詞だろう。
「だけどさ、好きになったもんはしょうがないじゃん?」
その言葉があまりにも智らしい言い方で、翔は喉の奥から笑いがこみあげてきた。
「…なに、笑ってんだよ」
翔が笑い出したのが気に食わないのか、智は頬を膨らませた。
ごめん、ごめんと謝るとまた顔を真面目な表情に戻す。
智も同じように真剣な顔になった。
搾り出すように口を開く。
「…本当に、いいの?」
踏み込んでしまったら戻れないよ?という気持ちを祈りのように込めると、智がふわりと翔の身体を抱きしめた。
「いいよ、二人で一緒に頑張ろう?」
そう言って背中を撫でられて。泣きそうになったから力強く背中に手を回した。
どれくらいそうしていただろうか、抱きしめた翔の身体はまだ熱が残っているのか熱さを持っている。
愛しいその温度に回した掌にさらに力をこめて。
それから静かに離した。離した身体から見えたのは照れ臭そうにはにかむ翔の顔。
それがまだ小さな少年だった頃の姿を思い出して笑った。
だけれど目の前にいるのはもう、小さな少年でもなければ、大切な弟でもない。
ひとりの好きな人だ。
「翔が好きだよ」
愛しさが込み上げて口をついて出る。
翔も智を愛しそうな目で見つめて言った。
「俺も好きだよ」
ふたりで笑いあって幸せを噛み締めあう。
大変なことはたくさん待ち構えているのだろうけれど、頑張っていけると思った。
ふいに翔の手が智の顔にのびる。
「キス、してもいい?」
震えるような、確認するような声に小さく頷くと、静かに目を閉じた。
小さな幸せが唇に降ってくるのを、それから3秒後に感じた。