12:涙をこらえて
珍しく、本当に珍しく、翔くんが晩御飯を食べ終えた夜と言う時間に僕の部屋を訪ねてきた。
翔くんはあまり夜と言う時間帯に僕の部屋へと来ることはない。
たいていの場合この時間は、僕には真似の出来ない明日の準備や予習をしていて、忙しいからだ。
だから彼が尋ねてきたと、母に下から呼ばれた時は心底驚いた。
そして部屋に入ってきた翔くんは涙をこらえて、泣く一歩前の顔をしていて、もっと驚いた。
どうしたの?と声をかけようとしたら、何も言わずに僕のベッドに腰を下ろしている。
下を向いて、何かを堪えるように、手をぎゅっと握って。
「…翔くん?どうしたの?」
僕は目の前に立って、翔くんを見下ろした。
こんな風に翔くんを上から見るなんてことは、最近ではほとんどなくて、とても違和感を感じる。
翔くんは、話しかけた僕の言葉がまるで聞こえていないかのようにその場に固まったままだった。
僕はしゃがみこんで、翔くんの顔を覗き込むようにして今度は下から見た。
覗き込んだ途端、翔くんがするりと目線を外す。
見られたくない、見て欲しくないという感情を、素直にそのまま出してきた。
翔くんの態度に、徐々に、僕は彼が何かを知ってしまったのだと言うことに気付き始める。
「……智さん、これ」
この部屋にきてから、一度も声を発さなかった翔くんがやっとのことで声を出した。
それとともに茶色い封筒を渡される。
僕はなるべく、声が震えないように、なに?と返事をしながら、それを受け取り中身を確かめる。
それは先日、担任教師に頼んだ留学の書類だった。
ああ、やっぱり、君はすべて気付いてしまったんだ。
僕はその資料を机の上に置く。
そして話をどう切り出そうか、考えた。
今更いいわけしても意味はないとわかっているのに、頭が混乱している。
「留学…するんだ?」
ぐるぐると考えをめぐらせていたら、先手を翔くんに取られる。
俯いたまま、こちらを見ないで低く言われた声に、まるで怒られているような気分になった。
いや、実際に彼は怒っているのかもしれない。
「…ごめんなさい」
ぽつりと、自分でも何に対しての謝罪なのかわからぬまま、言葉を溢す。
すると翔くんは、それに反応するかのように顔を上げた。
「なんに対する謝罪なの?それ?留学すること?黙ってたこと?」
その表情と口調は明らかに、怒りを含んでいる。
「…両方」
今度はそれに僕が居た堪れなくなって、目線を外してしまった。
「…なんで言ってくれなかったの?」
「それは…」
「ねぇ、なんで?俺だけ知らなかったんでしょう?家で聞いたよ、俺の父さんや母さんですら知ってた。なのに、俺だけ知らなかった!!
裕貴くんも知ってんだろ?なぁ、なんで俺には何も言ってくんねぇわけ?なんで、なんで…」
怒りに含まれた声が段々と震えて弱弱しく、なっていく。
それを聞きながら、彼がひどく傷ついているのだと言うことに気が付いた。
怒っていても、ずっと、泣く一歩手前の顔だ。
まだ今よりもずっとずっと幼い頃に見た、あの表情。
その様子に、もっと早くに自分で言わなかったことを、今更ながらにひどく後悔する。
裕貴くんの言葉が蘇って、胸を突き刺した。
『早く言ってやれよ。でないと…他から耳に入ったら、あいつ多分傷つくぜ?』
そうだね、うん、そうだよ。
でもまさかこんなに傷つくなんて思わなかったんだ。
自分のために、こんなにも傷ついている、翔くん。
自分が傷つくのが嫌だったからって、僕は翔くんを犠牲にしたんだ。
なんて、僕は馬鹿だったんだろう。
「…ごめんなさい」
ぽつりとまた謝罪の言葉を溢すと、今度は僕に向かって手が伸びてくるのがわかった。
もしかして殴られるのでは、と身を竦ませると、予想とは違えた格好になっていた。
勢いよく向かってきた手は、僕の腕を掴み、ベッドへと押し倒される。
そしてそのまま翔くんは僕に馬乗りになって、身動きが取れない。
この間とは逆の体勢だ、なんて場違いなことが頭に思い浮かぶ。
「どうして…」
翔くんは、僕の顔を見たまままた、呟いた。
呟いた途端、ポロリと目の端から涙がこぼれたのがわかる。
彼はそれを拭うでもなく、流し続けた。
僕の頬に、涙の雨が振ってくる。
「翔くん…」
僕はどうして良いかわからなくて、ただその涙を流す顔を見ながら呆然としていた。
泣いている翔くんを見ていたら、胸が締め付けられる。
どうしようもなく、苦しくて、気が付いたら自分も泣いていた。
僕に泣く資格なんて、ないのに。
「ごめっ…なさい」
こんなに傷つくなんて思わなくて。
「ごめんなっ…さ…」
僕のことで泣くなんて思わなくて。
嗚咽で上手く出ない声を、必死で絞り出して、何度も何度も謝った。
翔くんはそんな僕の言葉に顔をしかめる。
「うるさい、黙れよ、謝罪なんて聞きたくない!!!」
涙でぐちゃぐちゃの顔を、勢いよく手で拭く。
その目はやっぱり、明らかに怒っていて。
「…智さんが、悪いんだからな」
翔くんは、そう呟くと、僕の腕を強く押さえつける。
「いっ…翔っ…くん…いたっ」
僕は顔をしかめて、翔くんを見上げると、翔くんはまるで僕の顔なんて見ていなかった。
いや見ているはずなのに、目も合っている筈なのに彼の目線は僕を見ていない。
「しょ、翔くん…?」
怖くなって、もう一度名前を呼ぶけれど、翔くんはやっぱり僕を見ていなくて。
「…智さんが悪いんだからな」
もう一度、そう呟くと、僕の唇に噛み付いてきた。
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