03:手を伸ばしたその先。




「留学してみないか?」

伝えられたその言葉を頭で反芻して、それから首を困ったようにひねった。
まだ時間はあるから、考えておいてくれと言われて、僕はその部屋を出る。

長く長く続く廊下を歩く、美術室のある場所はいつも放課後は静かだ。
校舎の一番端にあるその教室で部活動をしている生徒は、ほぼないに等しい。
自分とあと後輩が5人ほど、それだけが自分の入っている部活のメンバーだった。
今日は本来なら部活は休みだったのだけれど、顧問に呼ばれて、いつもの場所へと足を向けていた。
そこで言われた、衝撃の一言。

”留学”してみないか。

絵の世界で生きて行きたいと思ったことは確かにある。
ただ幾つか賞を貰ってはいるものの、他人よりも少しだけその方面に関することに自信がある程度でそんなこと。
漠然と大学へは行こうと思ってはいた。
出来れば美術系の大学へと。
他の勉強は不得意で、というよりも大嫌いだったから、絵の勉強以外でそこへ行く気などこれっぽっちもなかった。
それならばよっぽど働いた方がましだと思っていたくらいだ。
3年に上がり、ほとんどの生徒が、進路について頭を悩ませる。
自分も例外ではないのだと思いつつも、深く考えたことなどなかった。
だから、突きつけられた、降って沸いた話にまだ頭がついてこない。

自分は一体どうしたいのだろうか。

まだ時間はあるから、と言われてるから今すぐに結果を出す必要はないのだけれど。
試してみたいと思う気持ちと、変わるのを不安がる気持ちが、交互に流れていく。
無意識にため息が漏れた。

「何ため息ついてんの?」

唐突に声をかけられて、はっと顔を上げるとそこには翔くんがいた。

「もう用事終ったの?」

いつも一緒に帰っているわけではないが、双方がなにもない日は、朝と同じようにふたりで校舎を出る事が多い。
だけれど今日は、呼び出しをくらったから先に帰れと友人に伝えてもらったはずなのに。

「…何してんの?」
「すぐ終るかなぁと思って待ってた」
「…終んなかったらどうするつもりだったんだよ」
「でももう終ったんでしょ?じゃあいいじゃん」

帰ろう、そう言って、いつの間にか持ってこられてた俺の荷物。
教室の机の上に置いてあったのに、何で持ってきてんだよ、なんて考えながらそれを受け取る。
そうして横に並んでいつものように歩き出す。

「ねぇ、何の話だったの?」

ため息を付いていた僕を心配したのか、なるべくやんわりと聞かれる。

「んー…たいしたことじゃないよ」
「そう?」

少しだけ、悲しそうな目をして、それでも翔くんは僕にはそれ以上尋ねてはこない。
こういうとき、年齢だけは上でよかったと思う。
心配をかけたくなくて、というよりは、この話を翔くんにはしたくなくて。
だからほっとした。

ずっとずっと一緒にいたこの時間が、来年には消えてしまうのかもしれないなんて。
伝えたくなかった。
手を伸ばしたその先に、いつだって、同じ存在がいて。
いない、なんてまだ考えられない。

そう思いながら、手を思わず翔くんへ伸ばしてしまう。
翔くんは少し驚いた顔で、何?と僕に問いかけた。

「手、つないでもいい?」

そう確認を取りながらも、取っただけで勝手に手を掴む。
きゅっと握った手は昔のままだと思った。

「さ、智さん?」

少し焦った声で翔くんは僕の名前を呼んだけど、離そうとはしなかった。

「何年ぶりだろうね、手、繋ぐの」

そう言って見上げて笑ったら、翔くんは観念したような表情で、僕の手を握り返した。


今はまだ、考えない。考えれない。
手を伸ばしたその先の存在を、失うことなんて、考えたくなかった。




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