09:初体験
こつん、こつんと窓を叩く音がする。
サッと音を鳴らしてカーテンを開けると、明らかに赤い顔をした智さんがこっちに向かって手を振っていた。
「…風邪?」
そう呟くと、智さんは違う違うと首を振る。
そして窓下に隠れていた右腕を出すと、その手の中のものをこちらにかざした。
「…ビール?」
「そ、翔くんも一杯どうー?」
「…って、一杯どうじゃねぇって!あんた未成年だろ?」
「良いじゃん、良いじゃん。固いこと言いっこなし!今日父ちゃんも母ちゃんもいないんだ?こっちこねぇ?」
そう言って、ちょいちょいと手招きする。
なんだか、いつもと様子の違う智さんが気になって、俺は、小さくうなずいた。
「それじゃあカンパーイ!」
差し出されたビールの缶を、コツンと智さんの持つそれと重ね当てる。
少しだけ悪いことをしている気分で、ドキドキとそれを口に含んだ。
「…にがっ」
「あれ、翔くん、飲むのはじめて?」
グビグビと喉を鳴らしてビールを腹に収めている智さんが、少し驚いた顔でこちらを見た。
「俺、飲んだことねぇ」
「まじめだねぇ…」
「智さんはよく飲んでんの?」
「んーよくってほどじゃ、ないけどね。たまに、クラスの奴らとかと」
音を立てずに、部屋のカーペットの上をコロコロと飲み終わったビールの缶が転がっていく。
ペースが早い上に、俺が来る前にも飲んでいたみたいだったから、智さんのテンションは徐々に上がっていった。
そろそろ止めないと、と思った頃には、無数の缶が床に散らばっていて。
そのほとんどを智さんがひとりであけたかと思うと、目を丸くするばかりだ。
「智さーん?大丈夫?生きてる?」
ただでさえいつも眠そうな目が、お酒の力も借りて、さらに眠たそうに見える。
「んー生きてる…息してるもん」
ほら、と息を鼻先にかけられて、あまりのお酒臭さに顔をしかめる。
ちょっとこれは飲みすぎだよ、と諌めるように抱き起こすと、全体重を俺にかけて転がってきた。
「ちょっ…!」
押し倒されるように床に崩れ落ちると、そのまま智さんは俺の背中に腕を回してくる。
そんな酔っ払いの行動に少し胸を跳ねさせたが、冷静を装ってその背を叩いた。
「おーい、智さん?重いよ?のいて?」
そう語りかけると、2、3度うねり声を上げる。
けれど上からのく気配はない。
困り果てて、そのまま床に背を預けて、さてどうしようと考え込んでいると智さんはぴたりと動きを止めてしまった。
もしかして寝てしまったのだろうか。
この体勢はいろんな意味でやばいから、勘弁して欲しいのだけれど。
「智さん?ちょっと、智さん?」
声をかけると、身体がぴくりと動いた。
まだかろうじて起きている様子で、ほっと胸を撫で下ろす。
「寝るなら、ベッド行こう?ね?」
「やだ…」
「や、やだってちょっと…」
擦り寄るように頭を胸にうずめられて、かすかなシャンプーの香りが鼻先をかすめる。
少なからず自分も酔っているので、本当にこの体勢でのこれはきついものがある。
今まで保ってきた何かが崩れそうになるのを、必死で引きとめながら、力の限り振りほどこうと押し上げた。
だけれど普段その身体のどこに隠れているのか、わからないほどの力で、その力は引き戻される。
「…ごめん。ちょっと、悪い。1分だけ、このままでいさせて」
少し切羽詰ったような物言いに、押し上げていた腕を下ろす。
これは様子がおかしい。
胸の上に乗っかった体が不自然に規則的に動いているのを確かめると、小さな嗚咽が聞こえてきた。
…泣いてる。
腕の中の存在が、小さな、聞き逃してしまいそうな小さな声で泣いている気配がして。
少し霞んでいた自分の酔っ払った頭が一気に覚醒する。
「さ、智さん?どうしたの?ね?」
そう呼びかけると、智さんはさらに俺の胸に顔を押し当ててきた。
話したくないと拒絶するように、ただ何かを我慢するようにすがりつくその様子に、胸が痛む。
やっぱり俺じゃ駄目なのかと。
何かに苦しんでいる様子の、大切な人を目の前に、何もできない自分が歯がゆくて悔しくて。
仕方がないからせめてぬくもりだけでもと、そのすがりつく身体に腕を回して力強く抱きしめる。
ただ泣き止むまでこうしていることだけが、今俺に出来ることだ。
しばらく経って落ち着いたのか、智さんがゆっくりと体を持ちあげた。
もうその瞳からは涙は溢れてはいなくて、だけどいつもよりさらに困ったような顔をして、こちらを見つめた。
「…ごめんね?」
心底申し訳なさそうに、智さんは小さく謝罪を述べるけれど、俺はそれに首を振った。
なにかあったの?と声にならない声で尋ねると。
「あの、ね。僕、ね…」
できるだけ優しく首を傾げて、先を即す。
決心したように口を開いた智さんは何かを言いかけて、だけれどまたすぐ口をつぐんでしまった。
「…なんでもない」
心配をかけさせまいと言われたセリフがさらに不安を煽って、今度は俺が泣きたくなった。
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