aporia
車を降りた途端、櫻井は大野を待たずにさっさと建物の中へと消えていった。
いつもなら、振り返るとか立ち止まるとか。
並んで入るまではしなくても、何かしらのアクションは起こしてくれる櫻井が。
まるで大野なんていないみたいな風に、先を歩いている。
これは、相当怒っているのだな、と大野は感じ取った。
原因はわかっている、この間のキスだ。
櫻井の辛そうな表情を見て、何かに衝かれるように唇を奪ってしまった。
そのあと何の弁解もせずに、そして今日もなるべく普通の態度をとった。
彼はきっとそのことについて怒っている。
別に、怒らせたいわけじゃなかったんだけどな。
大野は遠ざかる櫻井の背中を追いかけながら、考える。
ただ、あんな顔をさせたくなかっただけだ。
苦しそうにゆがむくらいなら、まだああやって怒っている顔のほうがマシだ。
楽屋に着くと、櫻井以外そこにはまだ誰もいなかった。
櫻井は入ってきた大野には目もくれず、MDウォークマンを聞きながら、雑誌を開いている。
大野は櫻井へと近づき、MDウォークマンを上に引っ張って外した。
「…なにすんだよ!」
櫻井は、突然消えた音に一瞬驚いて、それからキッと睨みつけてきた。
「ね、怒ってる?」
怒っていないはずなどないくらいわかっていたけれど、あえて大野はそう聞く。
櫻井は睨んだ目のまま少し返答に困って、それから言った。
「…当たり前だろ?」
「そりゃ、ごめん。悪かったよ」
「悪かったじゃねぇよ!なんなんだよ!なんのつもりなんだよ!?」
「なんのつもりって、聞かれても」
「なんで、あんなことしたんだよ!?」
詰め寄られて、大野は初めて少しだけ言い淀んだ。
理由はただひとつ。
櫻井を傷つけた人間のために、つらそうな顔をしてほしくなかった、ただそれだけ。
「…表情、変えたかったんだ」
「は?」
「翔くんのあんな表情、見たくなかった。それだけだよ」
驚いた顔でも、怒った顔でも、あんな顔じゃなければそれでいいと思ったんだ。
「…でも、ごめんね?」
あんなの、誰だって怒るに決まってる。
大野だってもしあんなのされたら怒っているだろうと、そう思うのに。
「もうしないから」
そう言いながらも櫻井がまたあんな顔をしていたら、そうしない自信がなかった。
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